ハイよ~!シルバー!

十年来の夢だった歩き遍路。定年と同時に四国八十八ヶ所と別格二十寺を通しで歩きました。その体験を発信しています。

黛まどか「奇跡の四国遍路」を読むと遍路に出たくなる

更新2020年10月14日

 

ハイよ~!シルバー!のおじいです。

 

今回は、黛まどか著「奇跡の四国遍路」の書評です。

 

 

 

黛まどかプロフィール

1962年神奈川県生まれ

俳人

父は俳人黛執

1999年スペイン・サンティアゴ巡礼道を徒歩で踏破

2001年~2002年韓国・プサンからソウルまで徒歩で踏破

2017年四国遍路を徒歩で踏破

現在、北里大学京都橘大学昭和女子大学客員教授

 

本書を読んでもらいたい人

四国遍路に興味のあるひと

四国遍路のことは知っていて、遍路に行きたい気持ちになりたいひと

遍路に行きたいけど、実際に行く決心がついてないひと

そんなひとには役立つ内容です。

 

 宿の紹介や装備などの情報は少ない。

遍路に行く決心を固めたひとには、ドキュメンタリーとして楽しめます。

 

本の概要 

中央公論社(中公新書ラクレ

254ページ

2018年発行

前半(6割)が四国遍路の記録、小見出しの項目の最後に自作の句を載せている。

 

後半(4割)が「黛まどかさんへの八十八問」として、東大名誉教授で情報学者の西垣通氏との対談になっている。

 

内容

四国遍路といえば、寺から寺へ参拝して、ひたすら祈るイメージが強い。

しかし、実際には寺での滞在時間は短いのである。

 

遍路は札所と札所の間にある

遍路は参拝のしるしとして、お寺にお札を納める。

そこからお寺のことを札所と呼ぶ。

 

札所を参拝することは重要だが、札所と札所の間こそ「辺路」であり、修業であり、「遍路」の原点である。そこでの一期一会の出会いは、それぞれの無二の遍路を豊かに彩る。しかし、先を急ぐあまり貴重な出会いを逃がしている人が多いように見えた。

 

だから、ひととの出会い、特に外国人たちとの交流が多く描かれている。

これは類書ではあまり見られないところだ。

 

筆者は出会いの描写をくどくどと書かない。

短い会話文だけだ。

 

俳句では17文字で書かれた世界を、読み手が自分の想像力で創造していく。

 

俳句と同じく、読み手は会話文のなかに自分で作ったドラマを見る。

 

そして、遍路のこころを知る。

 

この本の最大の魅力がそこだ。

 

本書に触れると触れ合う旅にあこがれるだろう。

 

遍路の動機 

遍路はお大師さんに呼ばれて四国へくるという。

何度も呼ばれる人もいれば、四国に住みながら一度も呼ばれない人もいる

 

私の場合は決定的な1つの動機があったわけではない。ただここ数年、両親が大病を患い入退院を繰り返し、仕事と家事、看病による過労で、心身の澱のようなものが降り積もっていた。疲れ、迷い、焦り、不安、苦悩・ ・・・追い詰められて、持病が再発し、体調もひどく崩した。

 歩き 終えてしばらく経った今思うと、私は現実から逃れるように遍路へ旅立ったのだった。

 

遍路にでる動機はひとそれぞれだ。

深い闇を抱えたひともいる。

それをわかっているから、遍路は出会った相手に動機を尋ねないことになっている。

 

遍路とは“自分との和解“である

普通の生活では、自分の悩みを見ず知らずのひとに話そうとは思わない。

自分の胸の奥にしまい込んでいる。

 

なぜ四国遍路では、自分の胸の奥にしまい込んでいる思いを遍路に打ちあけるのだろうか。

 

お遍路は同行二人、つまり弘法大師といつも一緒に歩いているのだ。

お接待をするひとは、遍路と歩く弘法大師にお接待をする。

弘法大師にお接待をするのだから、遍路が勝手に断ってはいけない。

 

ひとに話を聞いてもらうだけで、こころはずいぶん軽くなる。

打ちあけるかどうか、それは自分の頭ではなく、こころが決める。

 

話を聞く遍路はお接待をもらった時と同じだ。

ただ無心になる。

 

筆者の文章にもそれが表れている。

 

寺と寺の間にこそ、ドラマがある。

わたしたちは、そこで話し手にも聞き手にもなることが出来る。

 

それが四国遍路に違いない。